東京大学医学部病理学教室百年の歩み

(東京大学医学部病理学教室百周年記念写真集より)

東京大学医学部の前身は徳川幕府の種痘所であり,東京大学としては明治10年(1877) 4月12日に発足している.当時既に,ベルツ,ディッセなどの外人教師,三宅 秀教授によって病理学の講義が行われていた.病理解剖も行われていたが,その詳細は明らかではない.明治16年 (1883) からは剖検記録も残っており,当時の病理学教室の活動の一端を窺い知ることができる.明治20年 (1887) 3月17日三浦守治先生が,帝国大学医科大学教授に任ぜられ病理学および病理解剖学を担当することになったのが,病理学教室創立の日とされている.それにしたがって,昭和12年 (1937) には50周年の記念行事が行われた.昭和62年 (1987) はそれから更に半世紀が過ぎ,明治20年からは一世紀の歳月が流れたことになる.明治27年 (1894) 5月には病理学第二講座が開設され,初代教授には山極勝三郎先生が就任した.三浦教授は明治43年 (1910),病により現役を退きその後任に山極教授が第二講座より移った.第二講座の教授には長与又郎助教授が昇任した.その後,第一講座の担任には緒方知三郎,鈴木 遂,岡 治道,吉田富三,太田邦夫,森 亘の諸教授に,第二講座は三田村篤志郎,三宅 仁,島峰徹郎,浦野順文の諸教授に受け継がれている.長与教授,吉田教授,森 教授は医学部長を務められ,長与教授,森 教授は更に総長を歴任されている.長与助教授は伝染病研究所所長,癌研究会会頭を兼任された.太田教授は東京都老人病総合研究所所長を兼任された.

病理学の研究および教育については人体病理学と実験病理学をともに推し進めることが望ましい.人体病理学では,病理解剖は主要の業務である.また,生検,手術材料の検索は診療活動の上で欠かすことができない.病理学教室は診療科に準ずる性格を持ち,研究,教育,診療といった3つの柱がある.剖検については明治16年 (1883) 1月20日に剖検された栃木県の士族27歳男性の心臓弁膜症の症例を第1例として一貫番号が付されている.昭和56年 (1981) 11月13日に剖検された症例が3万例目にあたり,昭和61年(1986)末までに31, 414例が剖検されている.明治33年(1900)からは人口動態統計があるが,それ以前の確実な疾病に関するデータとしては非常に貴重なものであろう.生検・手術例の検索の記録は,記録としては昭和4年(1929)からに過ぎない.東京大学医学部附属病院の症例だけでなく,外部の病院から送られてきたものも含まれている.昭和4年には年間58例に過ぎなかった.その後,徐々に増加し,昭和15年(1940)には854例に達した.その後,やや減少したが,昭和20年(1945)には激減した.教室の剖検例もこの年には激減している.終戦前後の時世の影響が窺える.戦後の米国からの外科病理学の輸入とあいまって,生検による診断,外科材料の検索が普及するようになり,症例数も増加して,年間1,200例を超すようになった.昭和29年(1954)末までの症例は17,182例となった.この新しい時代の流れに即応して,昭和30年(1955)からは中央検査部の1部門として病理検査室が設置され,院内の症例はどこで検索されるようになった.この病理検査室は昭和50年(1975)には病理部として独立した.現在は年間7,500例前後の症例が病理部で検索されている.細胞診の比重も年々高くなり,昭和37年(1962)から今まで生検・手術例と一緒に件数を扱っていたが,別に算するようにした.症例数も年々増加し,現在は年間7,000例を超すようになった.教室で検索する生検・手術例は病院内に病理部門が設置されてからは,外部の病院からの依頼標本だけとなったが,依然として続いている.市中病院に病理部門が設置されるなどで,症例の変動はあるが,年間数千例が検索され,昭和4年(1929)以来昭和61年(1985)末までに97,620例が検索されている.昭和59年(1984)より細胞診症例の増加に対処し,生検・手術例とは別に算するようになっている.

 研究・教育をはじめこれらの業務に従事する正規のスタッフの数は少なかった.1講座の定員が,教授1,助教授1,助手2とすると,これが充足されたのは戦後である.更に病理の診療活動の重要性が認識され,病院助手の席が設けられたのも,戦後のことである.病理部が発足してからは,病院助手は病理部の所属となった.現在病理学教室は2講座で,教授2,助教授2,講師1,助手4,病理部は助教授(副部長)1,助手3でこれらが病理学教室および病理部と一体になって運営されている.病理部の部長は病理学教室の教授が兼任している.

 歴史的にみて病理学教室と東京大学医科学研究所ならびに癌研究会癌研究所とは深い関係にある.これら研究所,医学部附属病院分院,都内や近県の幾つかの病院や研究所の病理部門とは密接に関連しており,これらの施設の責任者の多くは非常勤講師として,教室の研究,教育に参加し,人事や研究の上でも交流がある.

 対外的に,歴代の教授は学会の代表者として日本病理学会の運営に深く関与してきた.日本病理学会の設立は山極勝三郎教授を中心に企画が進められ,明治43年(1910)に開催された日本連合医学会の折りに「日本病理学会設立案」が上程され,満場一致で可決され明治44年(1911)に第1回春期日本病理学会総会が東京大学病理学教室で開催され,昭和61年(1986)には第75回春期総会が行われている.

 病理学会の東京地方会ともいうべき東京病理集談会は昭和10年(1935)に第1回の集談会を開催した.歴代教授が常任幹事として,この集談会の運営をはかってきている.これは春秋の2回行われ,戦中戦後の中断はあったが,昭和61年(1986)12月には第91回東京病理集談会が行われた.

 過去一世紀の前半は草創期から発展途上の教室であった.三浦教授は当時の難病であった脚気や肝ジストマ症などの研究を行なった.山極教授は脚気,台湾におけるペストなどを研究の主題としたが,のちに腫瘍病理学の研究に没頭し,大正4年(1915)には市川厚一助手の協力でタールによる化学発癌の実験成功は画期的な業績とされる.長与教授は肝臓,血液の病理学,ツツガ虫病,癌病理学のほか,胃潰瘍,傑出人の脳の研究を行なった.

 このような前半期に対し,後半期は社会的影響を大きく受けて,病理学をすることすらが困難に陥った時代である.最近の50年間には戦争,戦後の窮乏期という大きな試練の時があり,戦後を脱した頃には大学紛争のためにもう一度復興が挫折するといった教室の荒廃の危機が何度かあった.歴代の教授は戦争,戦後,紛争のいずれかを,またすべてを経験されながら教室を維持されてきたといえよう.戦争では人を奪われ,人心も荒廃した.こうしたなかにあっても,歴代の教授の指導の下に研究は進められてきた.緒方教授は脚気,ニワトリの白米病,人体腫瘍,結核,癩など広範な研究を行なったが,唾液腺内分泌の研究に重点を置いた.三田村教授はツツガ虫病病原体,細胞学とくに腎尿細管の構造と機能,肝臓の病理,日本脳炎などの研究を行なった.鈴木教授は腎炎および腸チフスの研究を行なった.岡教授は戦後の混乱期に結核症の臨床病理学的研究,抗結核剤による病像修飾について研究した.三宅教授は広島・長崎における原爆症の病理学的研究,血液,肝の病理学的研究,黄変米などのカビ毒,真菌症の研究を行なった.吉田教授は吉田肉腫,腹水肝癌などの実験腫瘍の細胞学的研究を主として佐々木研究所で行なった.教室では人体腫瘍の病理学的研究を行なった.太田教授は腫瘍の病理学,特に消化管などの早期癌についての研究を行なった.島峰教授は血液病理学,とくに骨髄の病理などの研究を行なった.森 教授は腫瘍,肝および松果体の病理,シュワルツマン反応の病理などの研究を行ない,総長就任後も続けている.浦野教授は小児腫瘍,骨髄の病理,疫学の研究を行なっている.

 診療活動の中で,病理学の重要性は高まってきている.これに対しては,長い間教室で培われてきた人体病理学の成果がここにきて実を結んでいる.かつては,剖検を行い,臓器を顕微鏡的に観察することが研究であった時代は過ぎた.これは病理学的検索の第一段階に過ぎず,日常業務となっている.太田教授が力を入れて導入,指導した外科病理学が病理学者にとって必須こととなり,認定病理医になるための必須課目である.情報化時代にあっては学問の進歩も速い.学問的業績はすぐに古くなってしまう.先端技術の長足の進歩のなかで病理学の在り方が問われ,どういう病理学を研究面でして行くかの重大な岐路にさしかかっている.古典的病理学は診療の場で生かされ,研究の面では病理学者としてよりは生物学者として病に取り組む必要に迫られている.学士院賞に輝いた山極勝三郎教授,三田村篤志郎教授の業績,文化勲章の栄に浴された緒方知三郎教授,吉田富三教授のお仕事など,過去の栄光とならぬよう,従来の病理学を基礎に,新しい病理学に教室員一同取り組んでいる.